大学在籍中より、映画製作の録音アシスタントとして働きだしました。
この6年生だった年はいろいろあって、まず山田洋次監督の「キネマの天地」という映画の俳優オーディションを受けて、たいへんな倍率だったのですが、なぜか受かりました。
そのときの大部屋俳優体験が映画スタッフへの興味を膨らませました。
それでその松竹大船撮影所通いの最中に、大手代理店が主導する「新人映画スタッフ募集」のオーディションを受けました。20人の新人にいろいろなパートを学ばせ、3年間で8本の映画を作り、上映するというプロジェクトでした。
その1本目で私は録音部としてプロのもとで2ヶ月半にわたる過酷な撮影とその後の仕上げ作業に関わりました。
さて次はどんな部署かなと思っていたところ、東宝洋画系で全国上映したその映画がおおいにコケて、プロジェクトは頓挫。新人スタッフ全員が不当なる解雇という憂き目に合いました。まったくひどい話です。
これ以降「フリーランス」といえば聞こえはいいですが、私の場合は限りなく「フリーター」な生活が今にいたるまで続くことになります。
もはや大学も辞めてしまったし、26歳だし、どうしようかと思っていたところ、そのときの録音部のひとたちが、きみも当面生活もあるだろうからとテレビやVシネマや映画の仕事をくれるようになったのでした。
そんな生活が1年ほど続いて、やっぱり違うからやめようかなと思っていた矢先に、同じ録音仲間から自主映画の話がありました。お金はでないけど技師だというので、それではこれを最後にしようと思い、やりました。ぴあのスカラシップで得たお金で作った園子温監督の「自転車吐息」という映画で、助手なしの録音技師を経験しました。
撮影終了後の編集期間が1ヶ月ほどあり、その間に働かないといけなかったので、先輩に斡旋してもらったコマーシャルの現場にいくようになりました。
これがなんといいますか、すごく楽しくて若々しく、いままでの撮影経験とはちがって、なんだか自分に一番合っているような気がしたのでした。
そこで「録音部を辞める!」というのをやめて、コマーシャルを専門にしているミキサーに弟子入りをお願いしました。
そこからバブルとかいろいろあって、楽しくも忙しい日々が続き、結婚したり、こどもができたりしました。
33歳のときに録音ミキサーとして独立し、現在にいたるまで、主にコマーシャルフィルムの撮影と仕上げ作業に関わっています。
その間、コマーシャル以外に劇映画を4本ほどやりました。
「ぼくは勉強ができない」(山本泰彦監督、96年)
「ビューティフルサンデー」(中島哲也監督、98年)
「いたいふたり」(斉藤久志監督、02年)
「TOKYO FANTASY」(ラファエル・フリードマン監督 14年)
2002年には、一緒に仕事をすることが多かった演出家の今村直樹さん、美術デザイナーの河野博さんと共同で「ライブラリー」という事務所を開きました。以後12年間、そこを拠点にいろいろな仕事をしたり、仕事以外でも自分たちで映像を企画し、「オフコマーシャル」というジャンルを作り上げたりしました。またホームページを通じて各方面にはたらきかけたり、いろいろと意見を述べたりもしてきました。
私は技術職なので、いわゆる作品集というものはありませんが、関わったもののいくつかを「ラクヲン」のFBページにのせています。よろしければご覧になってください。